ついの先

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今年になってはやお葬式が2回あった。1つは身内の死だった。ほかにも見知った2人の人の訃報を聞いた。まちがいなく高齢者社会を実感させられる。

たいていの場合、病院に入院していたり、自宅で病床についていて最後を迎える。いずれやってくる終わりではあるけど、亡くなった知らせを聞くのはつらい。いきなり頭を打たれるようでもあり、どういえばいいのか返すことばがない。

ただ現実を受けとめるすべしかなく、なにもできないという無力感だろうか。あるいはまた、人の死という悼みをある意味、人ごとでしか実感できないもどかしさもある。肉親であるとか、関係のどあいにもあるのだろう。

離別の悲しみは、より緊密にある親族において現実性をもつのはいうまでもないし、その悲嘆の深さは想像を絶するものがあるはず。ただ見守ることでしかなく、人を超えた創造主の慰めを祈るばかりだ。

生の苦しみから解放された直後のお顔は、眠っているようで安らかだ。通夜があり葬式ののち葬儀場に向かう。すでに10以上もある焼却炉がほとんどが燃えている。

焼き上がるまでその間、遺族は料理屋でごちそうを食べる。宴会とはいかなくても、ビールも出るし変わらない。そのあとにはお骨ひろいが残っている。そこでは品評会でもするよう雰囲気がある。

ある作家が、人生最大事たる死は偶然にやってくる、と書いている。偶然というのが、なにか変でもある。突然だったらわかるけど、どこか死が最大事でなく、ファジーだ。しかし人はみな、そのようにしか死を受けとめるしかないのだろう。

用意しておく物は遺影用の写真

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